第12回:八柱神社 ─ 家康公の悲しみが眠る、築山御前の首塚

岡崎観光

家康ゆかりの街 岡崎の神社仏閣巡りと、食のひとやすみ。

愛知県岡崎市。徳川家康公が生まれたこの町には、今もなお家康公にまつわる神社仏閣が点在しています。
このブログでは、そんな岡崎の歴史ある寺社を一つひとつ巡りながら、訪れたあとの“より道”として、和食料理店「魚信(うおのぶ)」もご紹介していきます。

祈りと歴史に触れ、少しだけ立ち止まり、美味しいひとときを味わう。
そんな“心とお腹が整う”旅のおともに、どうぞ。


八柱神社 ─ 家康公の正室・築山御前を弔う岡崎の記憶

岡崎市八柱町に静かに鎮座する八柱神社(やはしらじんじゃ)は、
「八柱大神」を祀る格式ある神社でありながら、
実はもう一つの顔──家康公の正室・築山御前の首塚が残る場所として、歴史的にも重要な意味を持っています。

神社の奥、杉の木々に囲まれた静かな一角に、ひっそりと立つ石塔。
それが「築山御前首塚」です。


家康公の正室・築山御前と、悲劇の長男・信康公

◉ 信康公と築山御前──徳川家の悲劇

徳川家康公の長男・信康公は、織田信長の娘・徳姫と政略結婚を果たし、
家康公が浜松に本拠を移した元亀元年(1570)に、岡崎城主となりました

しかし数年後、織田信長は、信康の母・築山御前が今川家の出身であり、
なおかつ武田信玄と内通しているとの疑いを抱き、
家康公に対し、築山御前と信康公の処断を強く迫ったのです。

家康公はこれに対し、何度も助命を試みたものの、それは叶わず──

  • 築山御前は、岡崎から浜松へ移送中、途中で殺害され
  • 信康公は、二俣城で切腹を命じられ、自刃

家康公にとって、それは「家族を手にかける」という最も重い決断」でした。
この出来事は、家康公の晩年に至るまで心の深くに刻まれ、後に「なぜあの時…」と悔い続けたとも伝わります。


八柱神社に残る「築山御前首塚」

この八柱神社には、その築山御前の首が葬られたと伝わる「首塚」があります。

地元では長く「築山さま」と呼ばれ、
今もなお、ひっそりと花を供える方が後を絶ちません。

その姿は、歴史に翻弄された女性への哀悼であり、
家康公という英雄の“消せない記憶”を静かに語り継いでいます。


境内の見どころと参拝の心得

  • 主祭神は八柱大神(八柱=多くの神々の意)
  • 本殿裏手に築山御前の首塚あり(案内表示あり)
  • 地元では「厄除け」「安産」「家内安全」の守り神として親しまれる
  • 境内は清掃が行き届いており、静かで清浄な空気感

訪れる際は、ぜひ首塚にもそっと手を合わせていただければと思います。


アクセス・参拝のヒント

  • 名鉄「男川駅」より車で約10分
  • 駐車場あり(小規模)
  • 早朝や夕暮れの時間帯は特に静寂でおすすめ
  • 周辺には「築山御前由来の地名」や石碑もあり、散策にも最適

魚信で、家族の絆と命の尊さを感じながら

家康公が失ったもの──
正室、そして長男。

その胸の痛みを感じたあとは、**魚信(うおのぶ)**で、
命を繋ぐ“ごはん”の大切さを噛みしめてみてはいかがでしょうか。


本日のおすすめ:追想御膳

  • 刺身三種盛り
  • 鰻釜めし
  • 鱧の天ぷら
  • 冷やし鉢/しらすおろし
  • 本にがり豆腐
  • 水菓子(季節の果物)

命と向き合ったあとの一食は、心にも栄養が届くはずです。


さいごに:語られぬ者の想いが、岡崎に息づく

築山御前と信康公の最期を経て、家康公は真の覚悟を持って天下統一へと進んだ──
そう語られる一方で、彼の心に残り続けた“後悔”もまた、岡崎には静かに残されています。

それを今に伝えるのが、この八柱神社です。

次回は、家康公も敬った学問の神、菅原道真を祀った「岡崎天満宮」へと歩を進めます。
どうぞお楽しみに。

コメント

味の集会場 魚信 女将の西田敬子です。

名古屋短期大学を卒業後、地元の自動車メーカーで海外のお客様の工場案内などを担当していました。その後22歳で退職し、若女将として魚信に嫁ぎました。仕事をしながら一姫三太郎を育てる日々の中で、100名以上の年上スタッフや若いアルバイトと接するうち、コミュニケーションやモチベーションの難しさを感じ、様々な勉強会に参加してきました。

特に脳科学やメンタリングを学ぶことで、スタッフやお客様との関わりがぐっと深まりました。

今、大切にしているのは『感謝』の気持ちです。日々の小さなことにもありがたさを感じ、毎日が奇跡の連続だと実感しています。皆様のおかげで、心から感謝の日々を送っています。

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