◆ 導入文
「岡崎といえば家康公」──
それは単なる観光コピーではありません。日本の歴史を動かした男・徳川家康公の原点こそ、ここ岡崎にあります。
この地で生まれ、この地を離れ、そして幾度となく心を寄せた故郷・岡崎。今回は家康公と岡崎の深いつながりを、時系列でご紹介いたします。
【1】誕生──家康公、岡崎城で生まれる(1542年)
天文11年(1542年)12月26日、後の徳川家康となる「竹千代」は、三河国岡崎城にて誕生しました。父は松平広忠、母は今川義元の姪にあたる於大の方(おだいのかた)。
しかしこの誕生は、戦乱の世において“人質の人生”の始まりでもありました。
【2】父・松平広忠と岡崎の危機
竹千代の父・松平広忠は、岡崎城を治める松平家の若き当主でしたが、家臣の離反や織田氏の侵攻、さらには今川氏との従属関係の間で苦悩し続け、竹千代が3歳の頃に急死(自害とも暗殺とも言われています)。
岡崎城は一時的に混乱の渦中に置かれ、幼い家康公の運命も激しく揺れ動くこととなります。
【3】母・於大の方、竹千代との離別
家康公の母・於大の方は、尾張国の水野家(現在の知多半島)出身。竹千代がまだ幼い頃、今川と織田の政略の都合で離縁され、実家へ戻されています。
以後、家康公は母の愛情に触れることなく育つこととなりました。
【4】人質としての少年時代──岡崎を離れる(1547年〜)
6歳のとき、織田と今川の争いに巻き込まれた竹千代は、織田方への人質として送られるはずでしたが、途中で今川氏によって拉致され、駿府(静岡)へ──。以降、十数年間にわたり今川義元のもとで人質として過ごしました。
つまり、家康公は幼少期に岡崎を離れ、成人するまで帰ることはなかったのです。
【5】岡崎への帰還──初陣と城主としての再登場(1560年〜)
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康公(当時は松平元康)は独立の機を得て、再び岡崎城へ帰還します。
これが実に約13年ぶりの帰還でした。
岡崎城に入城した家康公は、以後この地を拠点に織田信長と連携し、三河の統一、さらには徳川家の礎を築いていきます。
この時期の岡崎こそ、家康公が「国づくりの力」を蓄えた場所です。
【6】岡崎を離れ、浜松・駿府・江戸へ──(1570年〜)
元亀元年(1570年)、家康公は岡崎を長男・松平信康に任せ、自らは浜松へ本拠を移します。
その後、信康公は武田との疑惑の中で自刃、岡崎城は再び家康の直接支配下となりますが、家康公自身が岡崎に戻ることはほとんどなくなります。
ただし、岡崎は徳川家の“聖地”としてその後も重要な意味を持ち続けました。
【7】家康公と岡崎の絆は消えず
天下統一後、江戸幕府を開いた家康公ですが、岡崎への愛情は変わらず、家臣団の中にも多くの三河武士が名を連ねました。
また、「東照宮」や「伊賀八幡宮」など、家康公にゆかりある神社仏閣は現在も岡崎に数多く残っています。
【まとめ】
家康公にとって岡崎は、
● 生まれ育ち、
● 若くして離れ、
● 武将として再び戻った原点の地。
岡崎なくして家康公は語れず、家康公なくして岡崎の歴史は語れません。
歴史を辿ることで、岡崎の町の風景もまた違った意味を持って見えてきます。
今歩いているこの道も、もしかすると──
家康公が、少年のころに走った道かもしれません。
【おまけ:おすすめスポット】
- 岡崎城跡公園:家康公が生まれた城。現在は復元天守と歴史資料館があります。
- 龍城神社:岡崎城内に鎮座する家康公ゆかりの神社。
- 伊賀八幡宮:徳川家の氏神。国の重要文化財に指定。
- 大樹寺:家康公が祖先の墓参に訪れた寺。十三重塔から岡崎城を望む「ビスタライン」は有名。
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